七海は大きく体を揺さぶられて、目を覚ました。
「ど、どうしたの?」
咄嗟に、運転席にいる俊夫に聞いた。
しかし、俊夫はじっと前を向いて、運転をしている。その形相はすさまじく、目を剥き出しにして、歯を食いしばっている。
「ねえ、どうしたっていうの?」
「だ、駄目だ、駄目なんだ…」
俊夫はうなされているように、そう答えるだけでじっと前を向いて運転している。アクセルをベタ踏みしているらしく、車の速度がぐんぐん上がっていく。
「ちょっ、ちょっと、マジ危ないって、止めて!」
「駄目なんだよ、付いてくるんだ」
「何がよ」
「影だよ、影。走っても走っても付いて来やがる」
七海は振り返って、背後の窓から外を見た。
街灯が凄い勢いで背後に飛び去っていく。しかし、道路には何もいない。
「影なんて、いないよ。俊夫マジ止めて!」
「居るだろ、ほら、よく見ろよ。地面に黒い影があるだろうが」
もう一度、七海は振り返って、高速でうねる道路を見た。
よく見ると、確かに影がある。
なにか黒い影が、線のようになって道路に書かれている。
もう一度振り返って、車の前を見ると、ヘッドライトに照らされる道路には影はない。まるで、自分たちの車の後ろを付いてくるように、影が道路の上に線を描いて付いてくるのだ。
「あ、あれ、なに?」
「し、知らねぇ。くそ、やっぱジジイかな」
「なに、ジジイって?」
「…」
「俊夫、正直に言いな」
「…さっき、お前が寝てる時に、ジジイが道に飛び出してきてさ、かわしたと思ったんだけどよ。それから、あの変な影が付いてくるんだよ」
「轢いたの?」
「わからねぇ。でも、衝撃はあったかも…」
「ちょっと…」
七海は思わず顔を覆った。
「な、七海、どうしよ。呪われちゃったんかな、俺たち」
震える声で俊夫が言ってくる。
俺たちじゃなくて、お前がだろ。と思いながらも、七海はつとめて静かに話しかけた。
「とにかく、スピードを落とそう。じゃないと、マジでどっかに突っ込むよ」
「でも、スピード緩めたら、影に追いつかれるかも」
「その前に衝突して死んだら、意味ないじゃん。でしょ?」
「あ、う、うん」
「それに、ほら、影もちょっと薄くなってない?」
「そ、そ、そう言われれば、そうかな」
七海は赤ん坊をあやすように、俊夫の肩に手を置いて、トントンと叩いてやった。
俊夫の顔から、狂気が消えていき、車のスピードが少し落ちた。
振り返ると、影は薄くなりながらも、ゆるゆると車の後に付いてきていた。車が右へ揺れると右へ、左へ揺れると左へと影も付いてくる。
「とにかく、警察行こ」
「け、警察? お、俺、轢いてない、と思うんだけど…」
「だからって、このまま、あの影を連れて家に帰れる?」
「そ、そうだけど」
「まずは警察、行こう。一緒に行くからさ」
「あ、ああ、七海、お前が居てよかったよ」
七海は、うんざりした顔を隠しながら、もう一度振り返った。
謎の影はやはり付いてきている。筆で線を書くように、車にぴたりと付いてくる影。
車は急ブレーキと共に、警察署の前へ止まった。
すぐに、俊夫と七海が飛び下りて、警察署の中へ駆け込んだ。
当直の警察官が驚いた顔で迎え入れる。
慌てて暴走気味になっている俊夫を抑えつつ、警察官に今までの事を話した。
警察官は、なんとか事態を把握すると、警察署の前の車を見に外へ出た。
警察官は車を一回り見渡した。
「うーん、詳しくは調べないと分からないけど、影とかいうのは無いみたいだけどな」
七海と俊夫は、恐る恐る車の後ろを見たが、確かにあのどこまでも付いてくる影は消えていた。
「とりあえず、もうすぐ鑑識の人間も来るから、署で待ってて」
警察官に言われて、二人は警察署の待合所で数時間の時間を潰した。
翌日、鑑識と警察の調べによってすべてが判明した。
バンパーの亀裂に挟まっていた頭髪から、少なくとも人間を轢いた事には間違いはなさそうだった。 ただ、被害者はどこにも見つからなかった。
鑑識が言うには、轢いた後、その人を車の下にひっかけたまま走ったせいで、アスファルトで削られ、徐々に体をすり減らしていって、完全に摩滅してしまった、のではないかという事だった。
あの影の正体は、人間の体の削りカスだったのである。
しかし、その後、捜索願いなど出ることもなく、被害者の身元が判明せず、というよりも被害者の存在自体が証明されず、不起訴となった。
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