「あの娘のにおいがするのよ」
私の前で、沙耶が言った。
「あの娘」が誰かは分かってる。
沙耶から彼氏を寝取った、三谷有紀だ。
あの娘は、きつめの香水を付けていて、部屋から帰った後でもその娘の存在が分かるほどだ。
でも、今はそんなはずはない。
そんなにおいがするはずがないのだ。
なぜなら、あの娘は自殺したのだから。
沙耶と男を取り合った末に、(わざと)沙耶と男のベッドシーンを見せつけられた有紀は、そのまま部屋を飛び出して、遮断機の下をくぐった。
死体は粉々で、鉄道員たちがスコップで肉片を拾い集めていたのを目撃している。
「もしかして、同じ香水付けてない?」
と沙耶。
「なわけないでしょ」
と私。
「そうよねぇ…」と言いつつも、沙耶は私の体をクンクンと嗅いでいく。
「気にしすぎじゃない? ほら、あんな事になっちゃった訳だし」
「違うのよ。本当に臭いがするの。わからない?」
私はしばらく鼻を上に向けて、部屋の中の空気を吸い込んで見た。
沙耶のシャンプーの臭い、壁や床からの塗料の臭い、あとは、人の臭い…
「あの娘の臭いなんかしないよ」
「そんなはずない!こんなに強くするのに!」
沙耶は犬のようにクンクンと部屋中の臭いを嗅ぎ回る
「ここも。ほら、ここも。ここも臭う。ここもここも、ここも!」
私はちょっと沙耶について行けなくなっていた。
有紀が死んでから3ヶ月、会うとずっと「あの娘の臭い」の話だ。
「ね、私、帰るから」
「待って!」
沙耶が台所で叫んだ。いつの間にか、右手に出刃包丁を握っている。
「わかった!わかったよ!臭いの元が!」
そう言うなり、沙耶は自分の顔に包丁を突き立てた。
悲鳴と、ごぼごぼという液体音と、コリコリという堅い音が沙耶の両手の間から聞こえる。
私は悲鳴を上げつつ、沙耶から目を離せなくなっていた。
沙耶の両手が真っ赤に染まり、指の間からドブドブと血が噴き出して、服を真っ赤に染めていく。
そして、ぼとり。
小さな肉塊が床に落ちた。
真っ赤な肉の塊。
それは、沙耶の鼻だった。
一週間後。
病院にお見舞いに行った私に、沙耶は包帯の向こうから微笑んで見せた。
「鼻が臭かったんだもん。におうはずだよね」
病院で、2回の自殺未遂をした沙耶は、今は向精神薬剤でいつも陽気でいる。
病室には鏡は一枚も無かった。 |