「…ねぇ」
「え?」
奈津実は振り返った。
誰もいない。
そこには、いつもの夕暮れの帰り道があるだけだった。
夕日の中に、立ち並ぶ団地。
遠くには、買い物帰りの親子や、自転車で遊ぶ子供たちが見えるが、そばには誰もいない。
じゃあ、誰が声をかけたのだろう?
奈津実は寒気を感じて、コートの襟を寄せた。
そう言えば、この団地は飛び降り自殺が多発していると聞く。
「…ねぇ」
まただ。
奈津実はキョロキョロと辺りを見渡した。
すると、団地の屋上、自殺防止フェンスの上に人影があるのを見つけた。
夕日の逆光の中でも、小さな女の子の影だとわかる。
女の子が、フェンスの上に腰をかけて座っているのだ。
「あぶない!」
とっさに叫んだ奈津実は、助けを求めて辺りを見回すが、やはり近くに人はいない。
奈津実はすぐに、女の子のいる棟に向かって走った。
団地は5階建てで、エレベーターが付いていた。
すぐさまエレベーターに乗り込み、『R』を押す。
焦らすようにゆっくりとエレベーターが閉まり、上がっていく。
屋上に着き停止したエレベーターから飛び出すと、奈津実は目の前の鉄の扉を押し開けた。
屋上。
正面のフェンスの上に、女の子が向こうを向いて座っているのが見えた。
夕日の中で、おかっぱ頭の後ろ姿が見える。服は、赤いワンピースのようだ。
「ちょっと!」
奈津実は聞こえる程度の大きさで、そう声をかけた。突然な大声は危険だと思ったのだ。
すると、
「…ねぇ」
と声が聞こえた。
あの声は少女の声だったのだ。
「声、かけてくれたんでしょ?ここから」
そう言いながら、奈津実はゆっくりとフェンスの少女に近づいた、
「…ねぇ」
少女の声がする。
「そう、上からそう声をかけてくれたのよね?」
奈津実は問いかけたが、少女は振り返らずに何かを喋っている。
フェンスまであと5歩ほどの所まで来た。
「……ねぇ」
「なに?そこじゃ聞こえないわ。こっちに来てお話しましょ?」
あと4歩。
「…ぇ……ねぇ」
「なに?ね、降りてきて」
あと3歩。
フェンスは大体胸の高さくらいだろうか。
その上で少女は足をブラブラさせて、独り言をつぶやいている。
「……え……ねぇ」
あと2歩。
奈津実は声をかけるのを辞め、静かに少女に近づいていく。
「…えも……ねぇ」
あと1歩。
もう手が届く。
奈津実は、素早く両手で少女の左腕を掴んだ。
その奈津実の手を少女が掴み返す。
くるりと少女が振り向く。
少女の顔の右側は、グシャグシャに潰れていた。
唇の無い口が大きく開く。
「おまえも、しねえぇぇぇぇぇぇぇ!!」
驚くヒマもなく、奈津実の体はフェンスを乗り越えて真っ逆様に落下し、地面に叩きつけられ、スイカのように頭蓋骨が炸裂した。
「警部、やっぱり上にも遺書は見つかりませんでした」
「遺書の無い自殺が、今年だけで15件か…いくらなんでもなあ」
「他殺でしょうか?」
「でも、一人で団地に入って行ったのを目撃した奴がいるんだろ?」
「ええまあ」
「…ねぇ」
「ん? お前なんか言ったか?」
「いえ、なにも?」 |