帰って来た女1

 ようやく家路についた香苗がその気配に気づいたのは、駅を出て10分ほど歩いていた時だった。
  帰宅ラッシュの満員電車からやっとの思いで降りて、ようやく体にまとわりついた人の臭いが消えてきた頃。

 誰かに見られている…
  香苗は素早く振り返った。
  しかし、そこには夜闇に沈んだ家並みがあるだけだった。
  住宅街の真ん中ほどで、人の気配はほとんど無く、所々に外灯が立っている。
 
  気のせい…?
  そうかもしれない。ひどく視線に過敏になっているだけ。

 
  香苗は、街を歩けば10人が10人とも振り返るほどの美人だった。
  勤めている証券会社の男性同僚のほとんどから告白され、ナンパやスカウトなどに常に声をかけられ、ストーカーまがいの男性に追いかけられた事も度々だった。
  そのせいか、ひどく視線には過敏になっている。

 きっと気のせい。
  早く帰ってシャワーでも浴びよう。

  気を取り直して歩きだした香苗の耳に、かすかな音が聞こえてきた。

チ…チ……チチ…チキ……チキ……チ…

 小さな金属音だった。
  どこかの家から聞こえてきたのだろうか? 
  歩きながら、左右に首を振ってみるが、今は聞こえなくなっている。
  とにかく早く帰ろう。
  足どりを早めた香苗の耳に、今度はゴム底の靴音が響いてきた。
  びっくりするほど近い。
  すぐ後ろだ。
  振り返る香苗の前に、どこから現れたのだろう真っ赤なロングコートの女がこちらに向かって早足で歩いてくる。頭には大きなツバ広の帽子をかぶっているため、顔は見えない。
  女は右手を隠すように背中にまわしている。
 
チキチキチキチキチキチキチキチキ……

 あの音が聞こえる。
  香苗は正体不明の恐怖にかられ、ロングコートの女から逃げるようにして駆け出していた。
  香苗のハイヒールがカッカッカッカッと素早く甲高い音をたてる。
  すぐ後ろから、ジッジッジッジッと別の足音が迫る。
チキチキチキチキチキチキチキチキ…

 このままじゃ、追いつかれる!
  すぐ背後から女の呼吸音が聞こえてくる。いや、もう首筋に息がかかっているのではないか?
  さらに女の悲鳴が聞こえてきた。
  いや、違う、いつの間にか自分の口から悲鳴が飛び出していたのだ。
 
  誰か!
  誰か、助けて!

  香苗は必死で走り、次の角を曲がった。
  途端に、誰かの胸に飛び込んでいた。
 
「おっと」
  と男性の声がする。
  見上げると、60代くらいの男性が見下ろしていた。
「どうしたんですか?」
  びっくりした様子で男性が声をかけてくる。
「あ、あの、変な女が!」
  香苗はそう言いながら、振り返った。
  目の前に、ロングコートの女が立っていた。
  思わず、香苗は男性の服にしがみついていた。
「こ、この人が追いかけてくるんです!」
  そう言って、ロングコートの女を指差す。

「あの、背中…」
  そう言いながら、ロングコートの女が顔をあげた。
  綺麗…。
  香苗は一瞬、何もかも忘れて女の顔に見とれた。
  でも、なんだか、肌が白すぎるような…。
「ありゃ」
  男性の声に、香苗は我に返った。
「これはひどい」
  男性がそう言いながら、香苗の背中を見ていた。
「え、なんですか?」
「とりあえず、上着を脱いで見てください」

  男性の言葉に、香苗は上着を脱いで背中を見た。そこには、くっきりと血の手の跡が付いていた。
「こ、これって…」
「ああ、そういう事ですか」

  男性が納得したような声をあげる。

「背中に血の手形を付けてる女性が居たので、危険を感じて、後を追いかけてきたって訳ですね?」
  と男性。
  ロングコートの女はコクンとうなずいた。

「あ、そ、そうだったんですか」
「変な女、は失礼でしたね」

  男性が苦笑しながら言う。
「あ、ご、ごめんなさい!」
  香苗は深々と頭を下げた。
「とりあえず、ここが私の家なので入ってください。警察に連絡しましょう」
  男性がすぐ横の家を指差して言う。
「いえ、その女性が無事ならいいんです。私はこれで」
「そうですか」

  ロングコートの女は一礼すると、今来た道を歩き去って行った。
 
  わざわざ私のために、ここまで追いかけて来てくれたんだ…。
  香苗は、去って行くロングコートの後ろ姿に、もう一度深くお辞儀をした。

「さ、家に入って」
  男性の申し出に素直にしたがって、家に入った。
  途端に、男性が鍵を閉めた。
「え?」
「警察に連絡しましょ」
「は、はい」
「その血の手形、付けたのはあの女ですよ」
「え…」
「見ませんでしたか? あの女、右手に血まみれのカッターナイフを握っていましたよ」

 

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