1月16日金曜日 夜8時19分。
渋谷スクランブル交差点。
住み処を替えようとする動物の群れのような人ゴミが、悲鳴と怒号に包まれていた。
人々は悲鳴をあげ、子どもは突き飛ばされ踏みつけられ、腕や足を人に踏み折られる子どもまで居た。恐怖の連鎖が起こり、恐怖の対象もわからずに必死で逃げまどう男女が、目の前の邪魔な他人を突き飛ばし、踏みつけて走っていく。
交差点を満たしていた人間の群れは、肉食獣に追われたかのように我先に逃げた。
叫び声と、怒声、泣き声、断末魔の声、それらが人のむせ返るような臭いと渾然となって、周囲に満ち満ちていた。
うまく逃げた者、何かの撮影だと思っている者、よく事態を理解していない者が、携帯やデジカメのフラッシュを光らせている。
建物内部にいた人間たちからも、写真撮影のフラッシュが光り、上の方から見下ろしていた者の目には、静かな水面に突然大きな岩を投げ落としたような、交差点中央から逃げまどう人間の波が見えた。
30分前。
美貴と詩織は黙って、渋谷を歩いていた。
美貴は、詩織の盗み見た。
会った時からそうだが、「頭が痛い」と言って片手で左右のこめかみを揉んでいる。
こちらから見た感じでは、痛みに耐えているようには思えなかった。詩織には表情がなく、ただ真っ直ぐ前だけを見て、歩いていた。
「大丈夫?」
何回目かの同じ質問を、詩織に投げかける。
「…うん、大丈夫」
こちらを見ることもなく、ただ真っ直ぐ前を向いたまま、詩織が答える。
「生理のせい?」
親友と一緒だと言うのに、週末の友人たちとの飲み会だと言うのに、美貴は居心地の悪さを覚えていた。周りには楽しそうな人込みがあふれ返っている。
「ううん…大丈夫…」
人込みの騒音の中で、消え入りそうなほどの声で詩織は返事をする。
顔はじっと前を向いたまま。
歩く速度も落ちない。
ポケットの中の携帯電話が振動しながら、着信音を鳴らした。
「あ、敬子から」
美貴はそう言いながら、携帯電話を耳に当てた。
詩織は返事もせずに、じっと前を向いて歩いている。
『今、どの辺?』
敬子の声だ。
「うん、今、詩織と一緒に。マルキュー近く」
『交差点の付近?』
「もう交差点を渡るとこだよ」
『あ、そんじゃ、すぐ近くに居るんだね。私も交差点に入ったところ』
「うそ、どの辺?」
『一応、真ん中目指して歩いてるけど、人多いからここでは会えないっしょ』
「わかんないよ、案外見つけられるかも」
『詩織と二人なんだよね。こっちから見つけられるかな』
「それなんだけど、会ったときからずっと詩織が調子悪いんだよね。飲みは駄目かも」
『うっそ、マジ? ちょっと詩織に代わって』
「う、うん、いいけど」
美貴は携帯を差し出しながら、詩織に言った。
「敬子から。代わってって」
「私…いい…」
相変わらず前だけを見たまま、ぼそりと返事をする詩織。
こちらからは左顔しか見えないが、ネオンや街灯に照らされる顔には生気がなかった。
美貴はぶつかって来る人波を避けながらも、詩織から離れないように交差点の真ん中辺りまで歩を進めた。
「ごめん、詩織、代わりたくないって」
『み、美貴、それ、詩織じゃない、逃げて早く逃げて!』
突然、敬子の絶叫が携帯から聞こえた。
その途端だった。周りに群れていた人々が、美貴と詩織を見て恐怖の叫び声をあげた。
騒然となった交差点の真ん中に、美貴と詩織だけが取り残されていく。
周りは恐怖の固まりとなって、二人から離れていく。恐怖と、奇異と、好奇心の視線が刺さるように集中する。
美貴は事態が掴めず、自分たちから逃げまどう人々を見た。
隣りを見ると、相変わらず前を向いた詩織が静かな顔をしている。
なにが、どうなっているの?
わからない。
何かが起こっている。
だけど、なにが?
私たちに何かあるの?
あ、向こうで携帯持っているの敬子だ。なんで、そんな目で見るの?
携帯から声が聞こえる。
『その女から、逃げて!」
その女?
美貴は唯一近くに居る人間、詩織を見た。
詩織から逃げるってこと?
詩織はじっと前を向いているだけで、おかしな点はない。おかしいと言えば、無表情なところだけだ。
こめかみを押さえていた手も降ろして、立ち尽くしている。
「し、詩織、わかんないけど、逃げよう!」
そう言って、詩織の左手を掴もうとした美貴の手を、逆に詩織の手が掴んだ。
「し、詩織?」
詩織の無表情の横顔に言う。
瞬間。
フラッシュと、喧騒と、悲鳴が不思議と遠くなった。
まるで時間が急にゆっくりと流れるように見える。
その中で、詩織の声が聞こえてくる。
「ごめん、顔の右側、もう剥がれちゃった」
そう言って初めてこちらを向く詩織の顔を見て、美貴は絶叫し、逃げようとしたが手を掴まれている。
チキチキチキチキチキチキチキチキチキチ…
暗闇に沈んでいく美貴の耳に、詩織の声が遠く聞こえてくる。
「あなたのちょうだい」 |