2、3日前くらいから、美希の周辺に不気味な目撃情報が寄せられてきた。
真っ赤なロングコートを着て、大きな帽子を被った女が、聞き込みをしているというのだ。
「知人の家を探している」
と言って、聞き込みをしているのだが、その知人の名前は明かさない。ただ特徴だけを言って、家の場所を聞き出そうとしている。しかも、その特徴が、美希を指しているようなのだ。
近所の親しい女性からも、その話を聞いた。
「私は知らないと言っといたけど。何か思い当たることがあるなら、気をつけた方がいいかもしれないわよ。かなり気味悪い女だったから。帽子の下を覗き込んだら、包帯でグルグル巻きで、ところどころ血が滲み出たような染みがあったのよ。しかも、女が居なくなったあと、地面に血の染みが出来てたしね」
あの女だ。
たしか、マキエという女。
美希は1週間ほど前の、風船のような顔の女の事を思い出していた。
顔を破裂させてしまった女。
しかも、この目撃情報は徐々に、美希の家に近づいて来ているようだった。
「それってヤバくない?」
大学の友人の久美子が心配そうに言ってきた。
「うん、一応、警察に相談して、巡回を強化してもらってるんだけど」
「ウチ、泊まっていく?」
久美子がそう言ってくれたが、翌日の大学への提出レポートがあるため、どうしてもアパートに帰らざるをえなかった。
久美子の部屋に寄っていたため、アパートへの帰り道は夜になってしまった。
なるべく人通りの多い道を選んでいくのだが、最後の数百メートルはどうしても暗い路地を歩かなくてはいけなかった。
チ……チ……チ…チ………チ…
奇妙な音が聞こえだしたのは、アパートまで数十メートルのところだった。
辺りは住宅街で、街灯も少なく、とっぷりと夜闇に沈んでいる。
時計を見ると夜11時を回っている。家々の窓からも、ほとんど光は漏れていなかった。
チ……チ……チキ………
また、あの音だ。
美希は自然と足早になっていた。
ジジジジジジジジジジジジジジ………
この音は……
チキチキ…チキ……チキチキ……チキチキ…
カッターナイフの刃を出し入れしている音。
あの女だ。
マキエが近くに居る!
美希は咄嗟に走った。
途端に、どこかで聞こえていたチキチキチキという音が、すぐ後ろを追いかけてくる事に気づいた。
美希の激しい息づかい、慌ただしい足音、をかき消すかのように、チキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキ……と音が付いてくる。
アパートの前に着いた美希の足が、一瞬遅れた。
このまま部屋まで上がっていいのだろうか?
このままだと、部屋を突き止められてしまう。
でも……
迷いは一瞬だった。
すぐに、アパートの外階段を駆け上がり、二階に上がると、すぐに自室の203号室へ向かう。
同時に、ポケットから鍵を探し出した。
一回だけ。
たった一回だけ、振り返った。
二階の廊下には人影はなかった。
いや、階段から何かが上がってこようとしている。
あれは、帽子……
チキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキ…
震える右手を左手で握りしめるようにして、キーを鍵穴に差し込んだ。
すぐに回して、振り返らずに部屋に飛び込み、背後でドアを閉める。
ロックをかけ、チェーンロックも差し込む。
そこまでして、ようやく一息吐くことが出来た。
足元から力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになるのを、なんとか堪えて、美希はドアスコープを覗いた。
しかし、そこには何の姿もなかった。
ただの気のせいだったんだ…
美希はフラフラとよろめきながら、部屋の中を歩いて寝室へ行くと、ベッドの中に倒れ込んで、そのまま眠ってしまった。
翌日、ベッドから起きると、明らかに昨晩の出来事が気のせいだったと確信できた。
いつもと変わりない日常の朝が、そこに広がっていた。
トーストを一枚食べ、コーヒーを飲んでから、部屋を出た。
もちろん、部屋の外には誰も居るはずもなく、明るい朝日が差し込んでいる。
アパートの一階に降り、住宅街を歩いていく。
昨晩、変な音が聞こえたと思ったのは、この辺りだったろうか…
そう思いながら、美希は住宅街の中の電柱を見た。
なんとなく、あの音がこの電柱の付近から聞こえていたように思えたのだ。
ふと、美希は足元を見た。
電柱の陰。
そこに、黒い染みが広がっていた。
そして、その黒い染みは、点々と道に続いていた。
美希は、その染みを目で追った。
電柱の陰から続く染みは、ぽつん、ぽつん、と50センチほどの間隔を開けて、美希が歩いてきた道を戻っている。
なんとなく、美希はその染みを追いかけていた。
ぽつん。ぽつん。ぽつん。ぽつん。
と、染みは道を進み、そして進むにつれて赤黒くなっていく。
美希は元来た道を、染みを追いかけて戻っていった。
赤黒い染みは、ぽつん、ぽつんと続き、ついには美希のアパートの階段まで来た。
そして、階段をのぼっていく。
赤黒い染みは、二階まで上ると廊下を進み、そして、美希の部屋203号室の前で、大きな血溜まりを作っていた。
こ、こんな大きな血溜まり……
あの女は一晩中ここにいたんだ… |