都市伝説だと思ってた…
猿渡真奈美は恐怖の中で、そう心の中で呟いた。
ビジネスホテルのシングルルーム。
真奈美はほんの遊び心の気持ちで、ベッドの頭の方の壁にかかっている額縁をめくってみたのだ。
すると、そこには明らかに護符が貼り付けられていた。
長方形の紙に、何やら漢字とも象形文字とも取れる奇妙な文字が踊っている。
真奈美は慌てて、ベッドの下を覗き込んだ。
すると、そこにも護符が貼り付けられていた。
テレビの後ろ、冷蔵庫の後ろ、テーブルの天板の裏…
ありとあらゆる所に、護符が貼り付けられている。
この部屋、出るんだ…
それもこの護符の数は半端じゃない。とんでもないのが出るんだ…
真奈美は全身の毛が逆立ち、ピリピリと毛先に嫌な気配が触れるような感覚を覚えた。
すぐにフロントに電話を入れる。
「ちょっと、305号室ですけど、ここ、出るんでしょ! 部屋を替えてください!」
厳しい口調で受話器に向かって言うと、フロントが本当に何も知らないような様子で
「はぁ?」
と答えてくる。
「とにかく部屋を替えてください。階も別に階の部屋にしてください!」
「はぁ、それでは別の部屋をご用意いたしますので、お手数ですがフロントまで鍵を取り替えに来て頂けますか」
「すぐ行きます!」
真奈美は叩きつけるように受話器を置くと、荷物を担いで逃げるように部屋を飛び出し、エレベーターに飛び乗ると、1階のフロントへ降りた。
『ビジネスホテル蓬莱』の1階フロント前は、ビジネスホテルにしてはかなり大きなロビーだった。駅からかなり離れている割りには、客も多く、ロビーには20人以上の人間がたむろしている。
その賑わいだ様子にほっとしながらも、足早にフロントへ向かった。
フロントマンがすぐに立ち上がる。
「305号室の猿渡様ですね。こちらをどうぞ」
すぐに別の鍵を渡された真奈美は、文句の言うタイミングを逸してしまい、そのまま鍵を持って5階へと上がっていった。
これだけすんなり渡すのは、やっぱりそういう事なんだ…
真奈美は508号室の鍵を持って、エレベーターから降りた。
廊下を一つ曲がってすぐが508号室だった。
鍵を開けて部屋に入るなり、ベッドの上の額縁を確かめる。
よし、護符はない。
ベッドの下、テレビの後ろ、冷蔵庫の後ろ、その他どこにも見当たらなかった。
いや、あのベッドのマットの端から見えているのは護符では…
真奈美は、ベッドの布団をまくり上げ、マットをめくった。
「ひっ!」
思わず、悲鳴を上げた。
そこには一面びっしりと護符が貼り付けられていた。まるで護符を固めて作ったようなベッドだった。
「も、もういい加減にして!」
真奈美は一秒でもその部屋に居たくなく、荷物を持つと再び部屋を飛び出し、エレベーターに飛び乗った。
一階に着くと、怒りを込めた早足でフロントの前に立った。
「ちょっと、いい加減にしてくれませんか。あんな部屋ばっかり回して!」
フロントマンは、まるっきり意味が分からない様子でぽかんとしている。
「さっきの部屋も、次の部屋も御札ばっかりじゃないですか!気持ち悪いんですよ!御札のない、ちゃんとした部屋を用意して下さい!」
「…はぁ、では手配しますので、そちらのロビーでお待ちください」
そう言うと、フロントマンは奥の事務所へと入って行った。
真奈美はいい加減くたびれた様子で、ロビーに設置されたソファーに荷物と共に崩れ落ちた。
二度もあんな部屋に通されたのは、かなりのショックだった。
あの不気味にくねった文字の護符が頭の中にこびりついている。
駅から20分も歩いてようやく見つけたビジネスホテルだったが、別を探した方が良いのかも知れない…
これだけ駅から離れているのに、ロビーにはたくさんの客がいる。きっと探せば他にもホテルはあるんじゃないかな…
ふと、目の前のテーブルに大きめのガラス製の灰皿があるのを見つけた。
ああ、ここは喫煙出来る場所なんだ… と、少し嬉しくなった真奈美は、胸ポケットから煙草を取り出しくわえた。
近くのソファーには誰も座っていない。
真奈美は灰皿を引き寄せた。すると、ガラス製の灰皿を透かして、裏に白い紙が貼ってあるのが見えた。
ま、まさか……
背中にいきなり氷水をかけられたような気分になった。
ゆっくり、ゆっくりと灰皿をひっくり返すと、そこには例の御札が貼ってあった。
「ぐっ!」
悲鳴すら出なかった。喉の奥に恐怖の塊が詰まってしまったかのようだ。息がしにくい。思わずソファーからずり落ちるようにしゃがみ込むと、テーブルの下にも護符が貼ってあるのが見えた。
真奈美はソファーの下に視線を走らせた。そこにも護符が。
ソファーのクッションを持ち上げる。やはりそこにも。
慌てて体を起こし、ロビーを見回すと、あちらこちらに護符らしき物が貼ってあるのに初めて気付いた。
このホテルは…
「猿渡様」
さきほどのフロントマンがロビーの事務所の出口から出てくるのが見えた。
その後ろに白い着物で、頭を剃り上げた老婆が一緒に出てくる。八十歳は越えているだろう、皺くちゃの猿のような老婆だった。
その老婆が乱杭歯を開き、真っ赤な口を開いて叫び声を上げた。
「スソサマのお導きを、ないがしろにするのはお前かっ!」
途端、ロビーにピンと緊張が走る。
次の瞬間、ロビーに居た全員がぬっと立ち上がり全員で声を揃えて
「なまくぎりぎりいんげっがららをぁぁそばか」
「なまくぎりぎりいんげっがららをぁぁそばか」
「なまくぎりぎりいんげっがららをぁぁそばか」
「なまくぎりぎりいんげっがららをぁぁそばか」
「なまくぎりぎりいんげっがららをぁぁそばか」
ロビーに居た全員がまるでロボットのように同じ奇妙な呪文を唱えてくる。
真奈美は荷物を拾い上げて、出口へ走った。
「逃がすなっ!」
という老婆の声と共に、ロビー全員が一斉に襲いかかってくる。
「なまくぎりぎりいんげっがららをぁぁそばか」
「なまくぎりぎりいんげっがららをぁぁそばか」
「なまくぎりぎりいんげっがららをぁぁそばか」
「なまくぎりぎりいんげっがららをぁぁそばか」
「なまくぎりぎりいんげっがららをぁぁそばか」
呪文を唱えながら、次々と手を伸ばして掴みかかるのを振り払って、真奈美は出口の自動ドアの前に立った。しかし、どこかで電源を切ったのか開かない!
カバンが後ろに引かれる。
真奈美は必死に自動ドアの間に爪を突っ込み、爪が割れるのも構わず、力一杯両手を開いた。
後ろから伸びた手が首を絞める。
振り向きざまに真奈美は、力一杯首を絞めている中年男性の股間を蹴り上げた。
「ぐひゃぁ!」
という悲鳴を上げて、その場にしゃがみ込む男性。
真奈美はカバンを毟り取るように引き寄せると、ようやく開いた自動ドアの間から、必死に飛び出した。
途端に体中に絡みついていた手が一斉に離れていく。
転がるように出口の階段を降りた真奈美は、素早く後ろを振り向いた。
「なまくぎりぎりいんげっがららをぁぁそばか」
「なまくぎりぎりいんげっがららをぁぁそばか」
「なまくぎりぎりいんげっがららをぁぁそばか」
呪文は続いていたが、ロビーに客たちはまるで結界でもあるように、自動ドアから外には出ようとしなかった。
後に分かった事だが、そこはある新興宗教団体の保養施設のようなモノだった。
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