君川敦美は思わず文庫本から、顔をあげた。
夕方の高瀬駅。
斜陽がホームの屋根の下に入り込み、ホームに居る人々を影絵のように逆光に浮かび上がらせている。数人の若者と、老人、そしてボール遊びをしている母子。
母親が子供用の小さめのサッカーボールを転がすと、3、4歳くらいの男の子が蹴り返している。
そのボールが時々、大きく飛び上がるので、敦美はぶつけられるんじゃないかと気が気ではない。
もう…、ホームでボール遊びするのは注意しないのかしら。
駅員の方を見るが、注意するどころか、にこやかに母子を見ている。
敦美はMP3プレイヤーのボリュームをあげた。
少し痛いくらいの音量がイヤホンから入ってくるが、外界を締め出すにはこれくらいがちょうどいい。
そして、ホームのベンチに座った状態で、文庫本に視線を落とせば、もう、わずらわしい事も忘れられる。
3ページも読み進めたくらいに、電車が入って来たのが分かる。
風が体にぶつかってきて、夕方の光線がさえぎられる。
しかし、これは『回送』車両だというのを知っているので、軽く視線をあげただけで、すぐに本に目を戻した。
その瞬間、回送車両にぶつかったボールが足元に転がって来たのが見えた。
ほら、まったく! もう!
敦美は右足で転がってきたボールを押さえると、ボールを踏んだまま立ち上がった。
耳からイヤホンを外して、母子を睨み付ける。
母子は、白線の近くにいた。子供が倒れ、母親が悲鳴を上げている。子供の体の下には、血の染みが広がっている。
そして、その横にはサッカーボールが転がっていた。
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